江戸期の追手門跡(枡形虎口)と土橋、背後の山は戦国期の城跡
戦国期安芸・長宗我部氏の城と江戸期五藤氏の城(土居)が混在して残る城
所在地
高知県安芸市土居953−イ
【アクセス】
城内には歴史民俗資料館がありますので、それを目標にして下さい。駐車場はありませんが、城跡(書道美術館・歴史民俗資料館)の前(東側)に駐車できます。
歴史民俗資料館(安芸市土居953−イ、0887-34-3706)
所要時間
山麓から戦国期の城跡(山頂の詰)まで2分ほど、見学時間は歴史民俗資料館見学も含めて35分でした。
形状
平山城(標高39.2m)
現状・遺構等
【現状】 歴史民俗資料館、書道美術館、山林
【遺構等】 曲輪、土塁、石垣、堀切、水堀、井戸、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2015/02/18
歴史等
安芸城は、鎌倉時代の延慶元年(1308)安芸親氏によって築かれたといわれる。
安芸氏は、672年の壬申の乱で土佐に流された蘇我赤兄の後裔と伝えられている。室町時代は土佐の守護代の細川氏に仕え、戦国時代には安芸郡下の豪族を支配するまでに成長し、「*土佐戦国の七守護」の一人といわれた。なかでも、安芸国虎は一条房基の娘を妻に迎えるなど、盤石の地盤を築いた。
戦国時代の末、安芸氏支配下の馬ノ上(現芸西村)の兵が長宗我部氏の領地・夜須に侵入したのが発端となり、安芸氏と長宗我部氏が衝突した。永禄6年(1563)安芸国虎は一条氏の援軍を得て、長宗我部元親が本山出兵で手薄になった岡豊城を攻撃した。しかし、岡豊城救援に加勢した夜須吉田の軍勢によって勝機が逆転、一条兼定の仲介で両者の対決は一時的に解消したが、元親からの岡豊城への招きを国虎が拒否し、再び合戦となった。
永禄12年(1569)、「八流の戦い」は激戦となったが、安芸城が背後から襲撃された。国虎は死力を尽くして応戦したが、降伏して開城、自害し、安芸氏は滅びた。
元親は、弟・香宗我部親泰を安芸城主とし、その後、30年間、長宗我部氏が支配した。
しかし、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で西軍に参加した元親の子・盛親は除封され、山内一豊が土佐の国主となった。翌6年(1601)浦戸城に入った山内一豊は、領内の要衝に老臣を配して備えとしたが、安芸には五藤為重が配され、ここに居館を構えた。
山上の城は、江戸時代の初期には既に取り壊されていたようだが、五藤氏によって、周辺が整備され、今に至っている。
『「長宗我部元親と土佐戦国の山城(高知県立歴史民俗資料館監修)」、「日本城郭大系15」、「現地説明板」他参照』
*土佐戦国の七守護
中村御所の一条氏を別格に、岡豊城主長宗我部氏、 安芸城主安芸氏、 香宗城主香宗我部氏、 蓮池城主大平氏、 姫野々城主津野氏、 吉良城主吉良氏、本山城主本山氏の七家が「土佐戦国の七守護」と称されていた。
現況・登城記・感想等
安芸城は、小高い山とその山麓とを利用して築かれた城で、山上の安芸氏・長宗我部氏の戦国時代の城と山麓の五藤氏時代の江戸期の土居の二つが混在して残っています。
東に安芸川、北に城ヶ淵、西に安芸川支流の矢の川、南に溝辺の堀があり、これらを外堀とした天然の要害です。
戦国時代の城は、山頂に詰を構え、南北に3段の曲輪を構え、最も高い部分の詰ノ段の南部分周囲には土塁がめぐっています。
また、詰ノ段の南下には2段の曲輪を備えており、南三ノ段下には石垣が築かれています。勿論、戦国時代にも、山麓に居館は構えられていたと思いますが、今では、多くが江戸期の遺構でしょう。
山麓の五藤氏時代の遺構としては、水堀、土塁、石垣、大手門跡などがありますが、巨石が使用された石垣で構築された6m四方の大手門跡(枡形虎口)とその前の石垣で固められた土橋、その両側の水堀の光景はなかなかのものです。
また、城内には城郭風の書道美術館と歴史民俗資料館が併設されています。(2015/02/18登城して)
ギャラリー
安芸城縄張り略図
下手糞ですが「長宗我部元親と土佐戦国の山城(高知県立歴史民俗資料館監修)」の縄張図を参考にして描いてみました、汗。
安芸城は、小高い山とその山麓とを利用して築かれた城で、山上の安芸氏・長宗我部氏の戦国時代の城と山麓の五藤氏時代の江戸期の土居の二つが混在して残っています。戦国時代の城は、山頂に詰を構え、南北に3段の曲輪を構え、最も高い部分の詰ノ段の南部分周囲には土塁がめぐっています。
また、詰ノ段の南下に2段の曲輪を備えており、南三ノ段下には石垣が築かれています。
東虎口
ナビで、歴史民俗資料館を指定して運転して行くと、安芸城跡の東虎口前に到着。この虎口周辺の石垣や土塁はあまりにも立派過ぎて、当時のものかどうかは分かりません。また、城内に城郭風の建物(書道美術館)が見え、その背後に戦国時代の城跡が見えます。尚、駐車場はありませんが、虎口の手前に駐車可の看板があるので、車を停めて入城しました。
水堀①
この水堀は、南正面にある大手門跡前の土橋の西側の水堀です。堀の幅は7~8mほどあり、土塁は腰巻土塁ですが、美しく風情があります。
水堀②
当水堀は、土橋の東側の水堀ですが、こちらには蓮が・・・。
南西隅櫓台?
南西隅の土塁上には石垣が築かれているようですが、櫓台でしょうかねえ。
大手門と土橋(背後に見える山は戦国期の安芸城跡)
大手門前の土橋手前から見る、石垣で構築された枡形虎口と土橋の光景はなかなかのものです。
土塁内側
虎口周辺から東側の土塁を撮ったものですが、なかなか立派な土塁で、虎口周辺は石垣が多用されています。
五藤家安芸屋敷
大手門から入城し北へ進むと、左手に「五藤家安芸屋敷」があります。
以下、現地説明板より。五藤家は、江戸時代、土佐藩家老として高知城の南に高知屋敷を構えたほかに、当安芸土居にも屋敷を構えました。安芸城の麓一帯には、屋敷や蔵、馬小屋などが幾棟も並び、広い土居屋敷を構えていましたが、明治になって全て取り壊されました。明治20~30年代にかけて、寄棟造りの主屋や離れなどが建てられ、その南面には庭園が造られた。平成20年(2008)に国の登録有形文化財に登録されました。
戦国時代の城跡へ向かう
戦国時代の城跡へ登城すべく、さらに北へ向かいます、正面奥の山が戦国時代の城跡です。右の建物は歴史民俗資料館で、手前の石碑は五藤家顕彰碑です。
尚、歴史民俗資料館の南側(写真手前側)に、安芸氏当時の掘立柱の建物跡が確認されたそうです。
城郭風建物の書道美術館
歴史民俗資料館の脇(西側)を通って行くと、右前方に城郭風の建物(書道美術館)が現れ、その手前に柵で囲った井戸跡があります。
毒井戸跡
井戸は石組み造りのなかなか大きな井戸で、「毒井戸跡」とあります。
以下、説明板より。永禄12年(1569)7月、安芸城は圧倒的な長宗我部軍に包囲された。籠城は24日に及んだが、ついに城の東、安芸川の対岸の丘より火矢が放たれ炎上した。この間、敵に内通するものがあり、機をみて城の井戸に毒を投じ、長宗我部の陣に走った。その為に、城内の多くの兵が倒れ、士気は著しく衰え、覚悟を決めた城主安芸国虎は残された全将兵と領民の助命を条件に、自らは菩提寺の浄貞寺にて自害したと伝えられる。
南三ノ段下の石垣
戦国時代の城跡へ登るべく、登城口へ向かうと、左手に石垣が見えます。南三ノ段下に当ります。
登城口
山への登城口は、書道美術館の前(西)にあります。登城口前に安芸城の説明板が設置されています。
詰ノ段虎口
登城道は整備されています。左手に、南三ノ段、南二ノ段を見ながら2分ほど登ると詰ノ段の虎口が現れます。
虎口から詰ノ段を
虎口から詰ノ段を見ると、虎口両側に土塁が設けられているのが見えます。山頂部は、「長宗我部元親と土佐戦国の山城(高知県立歴史民俗資料館監修)」の現況図によると、詰ノ段、二ノ段、三ノ段があるようですが、詰ノ段と二ノ段の段差には気が付きませんでした。詰ノ段と北二ノ段を合わせると、東西20m×南北60mほどとそこそこの広さがあります。
詰南部分周囲をめぐる土塁
土塁の高さは1.5m程度で、詰の南部分だけを取り巻いています。
詰ノ段土塁から南二ノ段を見下ろす
南二ノ段は三角形で、あまり広くありません。
北三ノ段
詰の段の北の方には、一段下がった北三ノ段がありますが、所謂笹曲輪のような狭い曲輪です。この先は急崖になっており下りて行くのは無理でした。