搦手口の空堀と復元された木橋と柵
コシャマインの乱を治めた松前氏の祖武田信広が夷王山山腹に築城
別名
脇館、上之国館、勝山城
所在地
北海道桧山郡上ノ国町勝山
【アクセス】
国道228号「道の駅上の国もんじゅ」から100m程東進してUターンするように急角度で右折し(案内有)、道なりに1km程坂を登っていくと左手に「勝山館跡ガイダンス施設」があり駐車場もある。勝山館搦手の案内に従って進むと館跡。
尚、国道228号線沿いを、「道の駅上の国もんじゅ」から200~300mほど東進したところにも、山麓から登る大手道がある。
形状
山城(標高159m)
現状・遺構等
【現状】 丘陵(国指定史跡)
【遺構等】 土塁、空堀、物見台、井戸、自然堀(谷)、夷王山墳墓群、虎口木柵(復元)、木橋(復元)、建物跡(復元表示)、木柵(復元)、石碑、説明板、遺構説明板
【国指定史跡】
指定日:昭和52年4月12日、追加指定:昭和62年8月10日
指定理由:蠣崎氏(のちの松前氏)の上ノ国地方支配の拠点となった山城。夷王山や墳墓群と一体の歴史的地域を形成する。蝦夷島における和人の足跡を考察するうえで貴重。
面積:約35万㎡
満足度
★★★★☆
訪城日
1999/04/30
2012/07/31
歴史等
1450~1590年頃、松前氏の祖武田(蠣崎)信広やその一族が居住した。
康生2年(1456)箱館近くの志濃里(志海苔、志苔)でアイヌ人殺傷事件に端を発し、アイヌの蜂起となり、遂に大乱となった。翌長禄元年(1457)5月、東部の酋長コシャマインが大挙して攻め寄せ、志苔館、 宇須岸館(箱館)をはじめ次々と館は攻め落とされ茂別館と蠣崎季繁(かきざきすえしげ)の花沢館が残るのみとなった(コシャマインの乱)。
この時武田信広は「夷王山の戦い」で和人を率いて敵を追い散らし、のち進んでコシャマイン父子を射殺したため、2館は事なきを得た。この年、信広は蠣崎季繁の養女(下国安東政季の娘)をめとり洲崎館を築いた。
その5年後、蠣崎季繁が没すると、蠣崎の家督を継ぎ、松前氏の祖となった。その後勝山館を築き、後の松前氏の繁栄の基礎を築いた。
永正11年(1514)に2代蠣崎光広が長子・義広らと大館(松前)に移ると、勝山館は脇館として次子の泊館主・高弘が城代となった。
その後、内紛やアイヌの攻撃を受けたりしたが、4代季広はアイヌと争う不利を知り、天文20年(1551)頃、親睦を図って蝦夷商船往来の制を定め、これより上ノ国から知内の間は「和人地」として確保された。これにより、商船は上ノ国の沖で一度帆を降ろすことが決まりになった。
標高159mの夷王山は館の最も重要なところのひとつで、日本海を往き来するたくさんお商船などを見張り、すぐ下の大潤湾は蝦夷交易の拠点であった。交易の利益や商船の納める税でこの館は大変繁栄し文化も高かった。
5代目慶広が、豊臣秀吉や徳川家康から夷島の主として認められ、名前も「松前」と変えた頃、勝山館の役割も変わり、桧山番所(官府と呼び上ノ国に置かれた)へと引き継がれた。延宝6年(1678)、桧山番所は江差に移り桧山奉行所となった。
『「歴史と旅・戦国大名家総覧(秋田書店刊)」、「勝山館跡ガイダンス施設パンフレット」他参照』
【コシャマインの乱】
志濃里(志海苔、志苔)の鍛冶屋村には数百軒の家があり、康生2年(1456)の春に、オツカイというあいぬの少年が鍛冶屋に来てマキリ(小刀)を作らせたところ、出来の良し悪し、もしくは値段について意見が合わず、鍛冶屋はマキリでこの少年を突き殺した。
これをきっかけに道南のアイヌが一斉に蜂起した。長禄元年(1457)、東部のアイヌの酋長コシャマインに率いられたアイヌ勢が、まず志苔館と宇須岸館(箱館)を攻撃し、続いて中野館、脇本館、穏内館(おんないたて)、覃部館(およべたて)、大館、祢保田館(ねぼたたて)、原口館、比石館の計10館を攻略し、「道南12館」のうち残ったのは下国氏の茂別館と花沢館だけとなった。
しかし、蠣崎氏の客将であった武田信広の謀略により、その後、コシャマイン父子は殺され、その他のアイヌも多数殺害されたことで敗北を喫した。
『北海道の歴史がわかる本・桑原真人、川上淳著(亜璃西社刊)他参照』
【道南12館】
道南12館とは鎌倉時代から室町時代中期にかけて道南地方南部(渡島半島南部)に築城された諸館の総称である。道南地方に12館しか築城されなかったというわけではなく、実際はもっと多くの館があったと思われるが、学術的に存在が確認されているのが志苔館・宇須岸河野館(箱館)・茂別館・中野館・脇本館・穏内館(おんないたて)・覃部館(およべたて)・大館・禰保田館(ねぼたたて)・原口館・比石館・花沢館の12館であることから、そのように呼称している。
現況・登城記・感想等
夷王山の中腹にある勝山館跡から日本海方面の眺めは素晴らしかった。時間の関係もあり墳墓群だけを見て、写真も撮らずに帰ってきてしまった。今になって考えると、つくづく残念に思う。
最近では「勝山館ガイダンス施設」が設立されたり、虎口木柵や建物跡が復元或いは復元表示されているそうである。
北海道にも日本の中世の歴史があった証の史跡であり、またその知識が少ない私としては、いつかもう一度じっくり訪ねたいものである。
(1999/04/30訪れて)
13年ぶりに、やっと再登城した。
勝山館は、洲崎館や花沢館とともに武田氏が関わり、築城した館であるが、築城年代が新しく、規模が最も大きい。
1979年から20年間にわたって発掘調査がされ、館の主体部から約200棟の掘立柱の建物、約100棟の竪穴建物などの遺構、陶磁器類約4万3千点、鉄製品約1万点などが出土されたのをはじめ、銅の細工場や吹口・羽口・鉄滓・鉄塊などの出土等々、数多くの発見がなされ、北の中世の山城の全貌が明らかになりつつあるという。
勝山館は、2つの沢に挟まれた尾根状の台地を利用して築かれ、館域の南北をそれぞれ堀切で断ち切り、館周囲を柵で囲んでいた。
堀切は、かなり規模も大きく、復元された木橋や柵などと相俟って見応え充分だ。
館は、中央を幅3.6mの通路が通り、その両側に階段状に造ったそれぞれ広さ100~140㎡ほどの土地に客殿跡や住居(侍屋敷)跡をはじめ馬屋跡、井戸跡、柵列跡、板塀跡などがあり、門や建物の跡を示す平面表示がされている。
また、館跡の背後及び西側には信広をはじめ館と関係のあった人々を葬ったといわれる夷王山墳墓群やゴミ捨て場跡、土葬墓群もある。
いずれにしても、13年前に登城した時より、さらに整備されて様相が変わり、さらに見応えのある城跡になっていた。
(2012/07/31登城して)
ギャラリー
【登城記】
本来、私の中では「山城は山麓から大手道を登る」が原則だが、時間が少ないのと、山麓に駐車場がなさそうなので、「勝山館跡ガイダンス施設」の建つ搦手口の上まで車で登り、搦手から入城することにした。
蝦夷山と石碑と案内板
勝山館跡ガイダンス施設駐車場から撮ったもので、正面が夷王山山頂でそのすぐ下にも墳墓群があるようだ。右の石碑には「史跡上之国館跡のうち勝山館跡」と刻まれている。石碑の向こうに案内板があり「勝山館跡搦手300m」とあり、それに従って右の方へ降りていく。
墳墓群(第2地区)
搦手に向かって降りていくとすぐ、左手に墳墓群が現れる。墳墓群は6地区に分かれ600基余りの墓があり、2×1.8m、高さ40cmほどの円形で、7mほどの大きなものもあるという。この墳墓群は第2地区。
寺の沢
さらに降りていくと、すぐに沢に架かる橋へ出る。この沢は、勝山館を挟む2つの東西の沢のうち西側の「寺の沢」で、これらの沢は、天然の空堀となっている。
夷王山墳墓群のアイヌ墓
橋を渡って少し登って行くと、右手に、また墳墓群が見えてくる。これらの墳墓群の中の幾つかはアイヌ墓だそうで、館の内部にアイヌの人々が居住していたと考えられるという。夷王山墳墓群のうち、計38基が発掘調査されているが、そのうち他の墓と異なるものがあった。
アイヌ墓発掘地点(現地説明板より)
アイヌ墓と思われる墓の1つは、遺体と60cmの太刀・漆器3個、もう1つは、2つの遺体が一緒に葬られ、頭部にアイヌが「ニンカリ」と呼ぶ耳輪が左右についている。アイヌの子供のものと思われる墓もある。
搦手が見えてくる
アイヌ墓の反対側には、木々の間から搦手が見える。搦手の手前には堀切があり、木橋が復元されている。搦手入口には柵も復元されている。
搦手
アイヌ墓から道なりに進んでいくと、正面に搦手が。写真右の案内板には「華の沢倉庫群」とあるが、藪がひどくて、とても降りて行けるような状況ではなかった。左の案内板には「ゴミ捨て場 土葬墓群」と「水場(樋・井戸)」とあったので、左下の方へ降りて行った。
ゴミ捨て場跡
斜面一帯に勝山館の人達のゴミ捨て場が見付かった。その中には、鶴などの鳥、狼・鹿・アシカ・鯨などの哺乳類、ニシン・ホッケ・鮭などの魚の骨、さらには柿の種・米粒・青磁・染付などの茶碗・硯・香炉・フイゴの羽口・下駄などが2m以上も堆積していた。
また、ゴミに混じって壮年男性の骨も見つかった。墓に埋葬してもらえなかった人のようだという。
土葬墓群
ゴミ捨て場の真向かいに土葬墓が41基ある。体を曲げて、棺に入れ、1.6m×1.2mほどの穴の中に埋葬している。釣り針や鎧の小札が副えられた墓もあった。
井戸跡と空堀
勝山館内部には用水施設が設けられ、寺の沢川の中央には木枠を組んだ「溜め井戸(写真左下)」が据えられていた。川の水を引く樋も1基発掘されている。2~3本連結して空堀(写真右上)の末端に水を落としたと思われる。堀底は通路に利用されていたが、そこから侵入されることが多かったようだ。
館神八幡宮跡
搦手口から入ると、左側に館神八幡宮跡の表面表示が示されている。文明5年(1473)、松前氏初代武田信広は、館の最上段に八幡神を祀り「館神」と称した。高い部分を削り下げ、西から南を囲む土塁を造って柵を建て、正面(写真左手前に当たる)に搦手門を設け堀を渡る橋を架けている。
土塁の内側で掘立柱の建物跡と礎石立の建物跡が見つかった。掘立柱は創建当初の社跡(室町創建社跡)で、礎石は明和7年(1770)に修理した本殿覆屋の跡(江戸再建社跡)と思われる。
掘立柱建物跡と石段跡
通路を挟んで、反対側には掘立柱の建物跡と石段跡がある。
階段状の掘立柱建物跡
館神八幡宮の下には、階段状に築かれた掘立柱の建物跡群が・・・。 掘立柱の建物跡は、館内で約200棟発掘されたという。
通路両側には階段状に住居群
館は、中央を幅3.6mの通路が通り、その両側に階段状に造られたそれぞれ広さ100~150㎡ほどの敷地に客殿跡や住居(侍屋敷)跡をはじめ馬屋跡、井戸跡、柵列跡、板塀跡などがあり、門や建物の跡を示す平面表示がされている。写真中央奥が正門になる。大潤湾(日本海)や上ノ国の町並みがよく見える。
櫓門跡
正門(大手門)から通路を40m入ったところに、4本1組の柱が見付かった。4脚の高い櫓門があったと思われる。
また、通路両端には板と杭で土留めをした幅45cmほどの溝があり、両側の住居から流れる雨水などを流す工夫がされていた。
城代の住居跡
正門(大手門)を入ってすぐ右手に、城代のもしくは重臣)の住居跡の平面表示が示されている。勝山館の中では、客殿の次に大きく立派な建物である。正面を中央の通りに向けた長方形の建物で、内部は客間・居間・寝室・台所などの部屋に分かれていたと思われる。
客殿跡
城代(もしくは重臣)の住居跡の隣には客殿跡の平面表示が示されている。勝山館の中で最も大きな中心になる建物で、館主が使っていたと思われる。客殿は広さ約30㎡の正方形の部屋が2室(写真手前2室)続いている。南側(写真一番手前)の部屋は客人をもてなすための部屋(客殿)で畳が敷かれていたと思われる。その隣は、居間(常居)で、奥の部屋は寝室、書院(御座の間)などと考えられる。また、専用の井戸(写真左奥)もあった。
発掘調査では、ルソン壺と呼ばれる高級な茶壺などのお茶道具や紅を溶いた皿(紅皿)などが見付かっている。茶碗や皿などの食器も中国製のものが多く使われている。
井戸と板塀跡
城代の住居や客殿のある敷地は、南西部を一段高くして板塀を建て、他の地区とはっきり区別している。板塀の近くには、深さ5.2mの客殿専用の井戸があった。
石組み排水溝
城代の住居跡の横には柵に沿って石組みの排水溝があり、雨水等が通路脇の木組みの排水溝へ流れるようになっている。
大手門前の堀切と木橋
大手門前には堀切が設けられていて、復元された木橋、そして遠くに見える日本海(大潤湾)や上ノ国の町並みと相俟って素晴らしい光景だ。
大手門跡と柵を仰ぎ見る
大手橋を降りて一枚! こうして見ると、館正面の防御がなかなか固いのが分かると思います。堀底から段上までは8~10mあり、急斜面になっています。
堀切
外側の堀切は、浅くなっているものの、二重堀切になっている。