城跡に設置された説明板
コシャマインの乱を治めた松前氏の祖武田信広が夷王山に築城
別名
脇館、上之国館、勝山城
所在地
北海道桧山郡上ノ国勝山
形状
山城
現状・遺構等
現状:丘陵(国指定史跡)
遺構等:土塁、空堀、物見台、井戸、自然堀(谷)、夷王山墳墓群、虎口木柵(復元)、建物跡(復元表示)、木柵(復元)、碑、
説明板
【国指定史跡】
指定日:昭和52年4月12日、追加指定:
昭和62年8月10日
指定理由:蠣崎氏(のちの松前氏)の上ノ国地方支配の拠点となった山城。夷王山や墳墓群と一体の歴史的地域を形成する。
蝦夷島における和人の足跡を考察するうえで貴重。
面積:約35万㎡
満足度
★★★☆☆
訪城日
1999/04/30
歴史等
1450~1590年頃、松前氏の祖武田(蠣崎)信広やその一族が居住した。
康生2年(1456)箱館近くの志苔(しのり)でアイヌ人殺傷事件に端を発し、アイヌの蜂起となり、遂に大乱となった。翌長禄元年
(1457)5月、東部の酋長コシャマインが大挙して攻め寄せ、志苔館、
箱館をはじめ次々と館は攻め落とされ茂別館と蠣崎季繁
(かきざきすえしげ)の花沢館が残るのみとなった(コシャマインの乱)。
この時武田信広は夷王山の戦いで和人を率いて敵を追い散らし、のち進んでコシャマイン父子を射殺したため、2館は事なきを得た。この年、
信広は蠣崎季繁の養女(下国安東政季の娘)をめとり、蠣崎の家督を継ぎ、松前氏の祖となった。その後勝山館を築き、
後の松前氏の繁栄の基礎を築いた。
永正11年(1514)に2代蠣崎光広が長子・義広らと松前大館に移り、勝山館は次子の泊館主・高弘が城代となった。その後、
内紛やアイヌの攻撃を受けたりしたが、慶長年間(1596~1614)の初めまで続いた。
4代季広はアイヌと争う不利を知り、親睦を図って蝦夷商船往来の制を定め、これより上ノ国から知内の間は和人地として確保された。
標高159mの夷王山は館の最も重要なところのひとつで、日本海を往き来するたくさんお商船などを見張り、
すぐ下の大淵湾は蝦夷交易の拠点であった。交易の利益や商船の納める税でこの館は大変繁栄し文化も高かった。
館の主体部は標高77~113m、約2万㎡の台地で、左右に一段低い各3千㎡ほどの平坦地がある。
『「歴史と旅・戦国大名家総覧(秋田書店刊)」、「現地説明板」参照』
現況・登城記・感想等
夷王山の中腹にある勝山館跡から日本海方面の眺めは素晴らしかった。
時間の関係もあり頂上にある武田信広が祀ってある夷王山神社までは行かず、土塁・空堀・墳墓群だけを見て、
写真も撮らずに帰ってきてしまった。今になって考えると、つくづく残念に思う。
最近では「勝山館ガイダンス施設」が設立されたり、虎口木柵や建物跡が復元或いは復元表示されているそうである。
北海道にも日本の中世の歴史があった証の史跡であり、またその知識が少ない私としては、いつかもう一度じっくり訪ねたいものである。
(1999/04/30訪城後)
