賤ヶ岳山上から余呉湖を望む
七本槍で有名な賤ケ岳合戦場の代名詞的な場所
所在地
木之本町大音
形状
砦(山城、陣城) 標高422m
現状・遺構等
【現状】山林
【遺構等】土塁、曲輪、賤ケ岳合戦に関しての(石碑、標柱、銅像、説明板tec)
満足度
★☆☆☆☆(砦の遺構に関して)
訪城日
1989/11/12
2008/11/12
歴史等
【柴田勝家×羽柴秀吉、北近江にて対陣】
天正11年(1583)3月初めから始まった賤ケ岳合戦では、わが国の合戦史上、他に類を見ないほど多くの陣城が築かれた。そして、両軍の息づまるようなにらみ合いがはじまり、長期戦の様相を呈した。
4月4日には神明山砦にて、翌5日には東野山砦にて小競り合いがあったものの、その後また戦線は膠着状態となった。
【秀吉方山路正国が寝返り佐久間盛政へと走る】
その間、堂木山砦にあった山路正国(長浜城主柴田勝豊の部下)が寝返り、佐久間盛政の陣へと走った。そして、「神明山砦・堂木山砦は堅固だが、大岩山砦は防備工事も未完成で、しかも第二線ということで油断している。大岩山砦を落せば岩崎山砦・賤ケ岳砦の攻略も容易である。」との情報をもたらした。
【秀吉、岐阜城攻撃へと向かう】
また、秀吉の主力が、この北近江に張り付いて、北伊勢や美濃の兵力が手薄になった隙をついて、滝川一益や織田信孝が反撃に転じたので、秀吉は4月17日、2万の軍勢を率いて、岐阜城の信孝を攻撃すべく、 大垣城へと急行し、主力部隊が不在となった。
【佐久間盛政、大岩山砦に奇襲作戦を敢行】
そこで、佐久間盛政は、柴田勝家に奇襲攻撃を願い出たが、勝家は、大岩山砦は敵陣に深く入った砦で、包囲殲滅される危険があるということで許さなかった。
しかし、執拗に説き続ける盛政に、勝家は、ついに「大岩山砦攻略後は、速やかにもとの陣に撤収する」という条件付きで許可した。
4月20日、夜影に乗じて盛政隊8000による奇襲攻撃が始まった。大岩山砦を守備するのは茨木城主・中川清秀以下わずか1000名。岩崎山砦の高山重友と賤ケ岳の桑山重晴のもとに、救援要請をしたが、いずれも腰を上げなかった。
止むを得ず、独力で抗戦するしかなく、壮絶な攻防戦が繰り広げられたが、圧倒的な兵力差で、遂には清秀以下1000名は全員玉砕、 大岩山砦は佐久間隊の手に落ちた。
岩崎山砦の高山重友は、 大岩山砦の陥落を知るや、一戦も交えず山を下って田上山城へ合流したため、佐久間隊は岩崎山砦も難なく占拠した。
このあと盛政は、またもや「大岩山砦攻略後は、速やかにもとの陣に撤収」という勝家の命に応じず大岩山砦に留まった。
【秀吉、大垣城から疾風の大返し】
4月20日正午頃、大垣城にいた秀吉が「大岩山砦、 岩崎山砦陥落」の急報を得、即座に健脚の兵を先行させ木之本までの沿道に松明と食糧を並べるように手配させる一方、出発の準備を命じた。
陣払いした秀吉軍は岐阜城の押さえに5000を残し、午後2時頃、1万5千の大部隊が木之本目指して怒涛の如く駆けはじめた。午後4時過ぎには最後の部隊も大垣を発した。
日が落ちると松明に火がつけられ、沿道に並べられた握り飯をほおばりつつ駆けた。そして、早くも午後9時には全員が木之本に駆け込んでいた。
大垣-木之本間約52kmを5時間、時速10.5kmという常識はずれなスピードで駆け抜けたことになる。
秀吉は佐久間隊の引き際を追撃し、一気に勝家本隊に決戦を挑むつもりである。
【激戦はじまる】
秀吉本隊着陣という予期せぬ報に、盛政は飯ノ浦の柴田勝政に援護を命じるとともに総兵に退却命令を出した。しかし、峻険の地での闇夜の撤退、しかも前夜からの不眠に加え疲労困憊の状態で陣払いにはかなりの時間を要した。
翌21日午前2時に佐久間隊撤退中の報を得た秀吉は、自ら先頭を駆けて総攻撃を命令した。
午前3時頃、秀吉軍の先鋒2000余が山腹を駆け下り、ついに両軍が接触し、薄闇の余呉湖畔で激しい戦闘が始まった。
しかし、盛政隊の巧妙な後退作戦に追撃兵は翻弄され、次々と討死していき、佐久間隊は余呉湖畔から川並を経て権現坂まで撤退していった。
この戦況を眺めていた秀吉は、午前6時頃、攻撃目標を勝政隊に切り替えた。この間に秀吉隊の残余の兵が続々と到着し、兵力は急激に増大した。その大隊を率いて、賤ケ岳へと向かう。
午前8時過ぎ、背進する勝政隊に対して、秀吉隊による一斉攻撃が始まった。勝政隊は大混乱に陥り、山坂を敗走しはじめた。この時に、大活躍したのが、世に名高い「七本槍」の面々である。
算を乱して潰走する勝政隊を見て、権現坂に無事退却を終えていた佐久間隊は、再び余呉湖畔に打って出た。激烈な死闘が続いたが、勢いに乗じる秀吉方は、激しく抗戦する勝政・佐久間隊をじりじりと追い詰め、もはや勝敗の趨勢は明らかであった。
【前田隊撤退】
そして、その時、権現坂に立つ佐久間隊の背後の茂山に控えていた前田利家・利長父子隊2000が兵をまとめるや一気に塩津方面へ下り始めた。さらに、前田隊の戦場離脱を知るや、金森長近、不破勝光もまた、兵をまとめて戦場から遁走していったのである。
このため、佐久間隊は総崩れとなり、盛政自身も塩津方面から落ち延びていった。
【勝家お市と共に自害】
この賤ヶ岳の戦いで敗れた柴田勝家は北ノ庄城で、お市と共に自害して果て、羽柴秀吉は天下取りに向けて大きく踏み出したのは周知の通りである。
『歴史群像シリーズ・賤ケ岳の戦い(学研刊)ほか参照』
【賤ケ岳合戦図】 (現地案内板より) ~画面をクリックにて拡大画面に~
【七本槍は9人いた!?】
「賤ケ岳の七本槍」といえば、秀吉から感状と恩賞をもらった勇者を指していい、福島正則(5000石)、加藤清正(3000石)、加藤嘉明(3000石)、片桐且元(3000石)、脇坂安治(3000石)、平野長泰(3000石)、糟屋武則(3000石)の7名である。
ところが、実際に感状と恩賞をもらった武功者は、そのほかに、桜井佐吉(3000石)と石河兵助(戦死、弟長松1000石)の二人がいたのである。
元来9人の軍功者が7人だけ選ばれて「七本槍」と呼ばれるようになったのには、「七本槍とは、はじめは必ずしも7人を指したものではなかったが、この前にも小豆坂七本槍」などといったものがあるので、これにあやかって自然にこう呼ばれるようになり、寛永2年(1625)加賀藩の儒者小瀬甫安が著した太閤記などの諸書が7人とし、それら偽作が一般化された。」等々、様々な説があるようだ。
『歴史群像シリーズ・賤ケ岳の戦い・二木謙一(学研刊)より』
現況・登城記・感想等
賤ケ岳への登城は19年ぶり2度目であるが、奇しくも同じ11月12日だった。前回は、乏しい知識のため砦跡という意識はなく、単に七本槍で有名な賤ケ岳合戦跡への観光で、紅葉と余呉湖の眺望が素晴らしかったことだけが記憶にある。
前回は、リフトで登ったが、今回は岩崎山砦(8分)→大岩山砦(25分)→賤ケ岳砦(1時間40分)と徒歩で登ってきたが、結構タフなコースだった。
特に、大岩山砦を過ぎてからは急坂が多く、お腹がすいてきたこともあり結構疲れた。しかし、頂上から周囲の素晴らしい光景を見下ろすと、疲れも吹っ飛び、満足感で満たされる。
また、山頂からの光景は素晴らしいだけでなく、合戦時の砦の山々も見渡せて、合戦を思い巡らしながらゆったりとした時間を過ごせる。
山頂付近には、土塁や曲輪などの遺構らしきものが残っているものの、観光で訪れる人が多いため、土塁などは踏みつけられ、ほとんど原形を止めていないところが多く、往時のものか改変されたものか区別がつかないのは残念だ。
尚、大岩山砦から賤ケ岳へ来る途中には、秀吉が佐久間盛政軍の追撃戦の指揮をとったという「猿が馬場」があった。
(2008/11/12登城して)
ギャラリー
余呉湖西岸(川並辺り)から望む
左(北)から、岩崎山、 大岩山を経由して賤ケ岳へとハイキングコースが整備されている。賤ケ岳までは、登り1時間40分、下り1時間5分ほどと結構タフなコースである。尚、賤ケ岳へは、写真反対(裏)側からリフトでも登ることができ、また徒歩でも1時間ほどで登れる。
猿が馬場
大岩山砦跡から賤ケ岳を目指して15分ほど登って行くと猿が馬場に着く。
「猿が馬場」は秀吉が、最初に佐久間盛政隊追撃戦を指揮したところであるが、盛政隊の巧妙な後退作戦に追撃兵は翻弄され、次々と討死していった。その後、戦線が余呉湖畔西岸に移ったため、陣を賤ケ岳山頂に移した。
「猿が馬場」は、大岩山砦から賤ケ岳へ尾根伝いに登る途中にあるが、この辺りは鬱蒼とした杉の木で真っ暗だ。また、陣頭指揮するには非常に狭く、他にもっと広くて高い所があったが・・・?
賤ケ岳への急な坂道
猿が馬場からは急な坂道を賤ケ岳山頂目指してひたすら登って行くことになります。
熊出没注意の看板
山頂近くまで来たら、「熊出没注意」の看板が現れました(苦笑)。今までの山城の登城で、この看板に出逢うとギョッとしたものですが、ここはかなり観光客がいるので何となく安心?
賤ケ岳山頂(曲輪跡)と余呉湖
大岩山砦跡から登ること1時間40分ほどで賤ケ岳山頂に到着します。山頂部は削平地になっており曲輪跡でしょう。
山頂から合戦時の砦群を見渡す ~クリックにて拡大画面に~
山頂の北側には余呉湖を見下ろすことができ、賤ケ岳合戦の際の砦跡や合戦地などを見渡すことができる。勿論、景色は最高に素晴らしい。
山頂から東南方面を
一方、南東方面は木之本町を見下ろす。正面奥の高い山が伊吹山で、その手前が小谷城で、そのずーっと左の方が田上山城。
石碑
山頂には石碑が建てられており、合戦について彫られていたが、古い上に逆光で読めなかった。
主郭南西部の土塁
山頂付近には、土塁や曲輪などの遺構らしきものが残っているものの、観光で訪れる人が多いため、土塁などは踏みつけられ、ほとんど原形を止めていないところが多く、往時のものか改変されたものか区別がつかないのは残念だ。
南の方の曲輪跡(名称不明)と曲輪東側の土塁
南には小さな曲輪跡が良好に残っているが、強烈な逆光でこんな写真しか撮れなかった(;>_<;)。
標柱
山頂東側には「賤ケ岳七本槍古戦場」と書かれた標柱があり、その裏側には7名の名前も書かれているが、すっかり古くなり朽ちかけている。また、南には「七本槍古戦場賤ケ嶽」と書かれた新しい標柱が立っている。