復元天守
譜代水野氏が築城、阿部氏が明治を迎える。幕末の老中阿部正弘は7代城主
別名
久松城、葦陽城(いようじょう)
所在地
広島県福山市丸之内1丁目(山陽新幹線福山駅の前)
形状
平山城
現状・遺構等
【現状】 城跡公園
【遺構等】 現存:伏見櫓、筋鉄御門、鐘櫓
復元:天守閣、湯殿、鏡櫓、月見櫓
遺構等:曲輪、櫓台、石垣、石塁、井戸、石碑、説明板
満足度
★★★★☆
訪城日
2012/01/09
歴史等
福山城は、元和5年(1619)、広島城主・福島正則の改易後、徳川譜代の水野勝成(三河刈谷城主・水野忠重の嫡男)が大和郡山城6万石から備後10万石の領主として入封し、福島氏時代にも支城の置かれていた神辺城や鞆城などと比較の上、新たに、翌6年から城の建築に着手し、同8年8月に完成したものである。
元禄11年(1698)、5代水野勝岑は幼くして死去したため水野氏は断絶した。そのため、在番として丸亀城主京極高或の家老平田数馬が入城した。
その翌々年(1700)には出羽山形城主・松平(奥平)忠雅が備後10万石の領主として移封されてきたが、これも僅か10年間で、宝永7年(1710)には伊勢桑名へ移封となった。
その後には、下野宇都宮城主阿部正邦が10万石で入封し、以後阿部氏が9代続いて明治を迎えた。
明治6年(1869)、廃城となり、堀は埋められ、天守閣・伏見櫓・筋鉄御門、御湯殿を除いて、ほとんど取り壊された。しかも、第2次大戦により昭和20年、天守閣と御湯殿を焼失し、伏見櫓・筋鉄御門のみが残った。
昭和41年(1966)秋に市制50周年記念事業として天守閣と御湯殿、月見櫓が、また昭和48年(1973)には鏡櫓が外観復元された。
『「日本城郭大系13」、「パンフレット」、「現地説明板」他より』
現況・登城記・感想等
福山城(城跡公園)は山陽新幹線福山駅の真ん前にあり、新幹線の中からは、何度も見たが、登城したのは今回が初めてだ。
比較的遺構が残る近世城郭の中で登城したことのない数少ない城で、気になっていたので、やっと来たという印象が強い。
福山城天守閣は、明治維新の荒波を何とか乗り越えたにも関わらず、第二次大戦で焼失してしまったのは何とも残念無念だ(;>_<;)。
しかし、三の丸の大部分は、山陽新幹線福山駅や市街地などになり埋没してしまっているが、本丸と二の丸周辺は比較的良好に残り、現存の伏見櫓・筋鉄門・鐘櫓と、復元された天守閣・御湯殿・月見櫓・鏡櫓等々見どころは多い。
一方で、福山城天守閣の特徴である、防御のための北面の鉄板が再現されていないのは如何なものだろう?
それにしても、見事な高石垣といい、天守閣や伏見櫓といい、僅か10万石とは思えないほど立派な城だったようだ。
(2012/01/09登城して)
ギャラリー
福山駅前から福山城全景を
福山城は、山陽新幹線福山駅のすぐ前だ。というよりも、福山駅が三の丸跡なのです。正面手前が、月見櫓で、その右に鏡櫓、さらにその右奥に天守閣が見える。また、左奥には伏見櫓が見える。
【登城】
福山城は、現在、城跡公園になり、いろんな場所から登城できるようだが、東側にある東揚楯御門から登城した。
(東揚楯御門)
外枡形形式の虎口で、写真正面上が東坂三階櫓跡
(鏡櫓)
本丸へ登ると、すぐ左手に「鏡櫓」が・・・。「鏡櫓」は、明治6年の廃城の際に取り壊されたが、昭和48年(1973)に外観復元された。
(月見櫓)
「鏡櫓」の南側には「月見櫓」が・・・。「月見櫓」は、追手側も入江方面も展望できる南東隅に築かれ、藩主等の到着を見極める役割をなしていて、本来の名称は「着見櫓」である。伏見城内にあったものを移築されたもので、明治初年に取り壊されたが、昭和41年(1966)に天守閣と共に外観復元された。
(天主閣と付櫓)
まずは何はともあれ、天守閣へ・・・。天守閣は、5層6階で2層3階の付櫓をもつ複合天守である。第二次大戦で昭和20年8月に8日に焼失したが、昭和41年(1966)秋に市制50周年記念事業として外観復元された。
天守閣上から本丸を
本丸は、南北約160m、東西80~120の不整方形で、北端の最高所に天守台がある。南側には、城主の居館である「伏見御殿跡」や「湯殿(復元)」があり、その周囲には伏見櫓(現存)、鐘櫓(現存)、月見櫓(復元)、鏡櫓(復元)、筋鉄門(現存)が建っている。
伏見御殿跡
御湯殿
伏見城内にあった豊臣秀吉の居館を移した伏見御殿に付随した建築で、国宝に指定されていた。第二次大戦時に焼失したが、昭和41年に外装・内部共に復元された。
筋鉄御門(すじがねごもん) ~重要文化財~
入母屋造り、本瓦葺、脇戸付き櫓門で、福山城本丸の正門である。伏見城から移築したもので、柱の角に筋鉄を施し、扉に数十本の筋鉄を打ち付けているためその名が生まれた。
筋鉄御門と枡形
筋鉄御門は、後代の枡形多門の形をとっていないが、枡形虎口にはなっている。
伏見櫓を南東から ~重要文化財~
三重の隅櫓、本瓦葺。伏見城松の丸にあったものを移築したものである。伏見城から移築したといわれる櫓は、他に江戸城や大坂城にもあるが、確実に伏見城の遺構といえるのは、この福山城のものだけである。
伏見櫓を本丸内から
伏見櫓は、隅櫓としては非常に大きく、下手な城の天守閣よりも大きい。古風な造りで、風格のある櫓だ。
鐘櫓を西側二の丸から
鐘櫓は本丸西側に位置し、時の鐘と半時(1時間)の太鼓を打っていたといわれる。当初は、柿葺きか檜皮葺きであったが、明治以後、荒廃が激しく、たびたびの補修のため、原形をとどめない状況であった。昭和54年銅版葺きで旧規に復した。尚、写真左側奥には、二の丸から本丸への御台所門があったが、現在では、門跡は石垣で埋められ、現在通行出来ない。
鐘櫓を本丸内から
城内に鐘櫓があるのは、全国的にも例がなく珍しいという。
荒布櫓跡
本丸北西部、棗門脇にある。
棗門虎口
棗門(なつめもん)は、本丸北西端に位置する本丸の搦手門である。
棗門跡
階段左右の礎石が門柱の位置。
五千石蔵跡と天守礎石
五千石蔵は、二の丸北側に位置する米蔵群の通称で幕府が非常用に備蓄した「城詰米」が貯蔵されていた。跡地の東半分は福寿会館(写真正面奥)、西半分はテニスコート(写真左奥)として使われている。また、昭和47年(1972)には天守の礎石(写真手前)が移設されている。
福寿会館(五千石蔵跡)
廃城後、五千石蔵跡地は民間に売却され、明治末期には空地となっていた。昭和初期には跡地の東半分に、削り節の考案者で鰹節王とも呼ばれた安部和助の別荘が建てられた。この別荘は昭和20年の空襲でも焼け残り、福山通運の創業者である渋沢晃へ、そして昭和28年(1953)に福山市に寄贈され、現在は「福寿会館」と呼ばれ貸会場として使われている。尚、この写真は天守閣上から撮ったもの。
天守閣北面と天守礎石(右手前)
福山城は、南正面などの複雑な縄張りに比べ北側の防備が手薄なため、天守の北面には鉄板が張られていたが、昭和41年の復元では再現されなかった。見た目が無骨なので再現しなかったのだろうが、このような復元の仕方は如何なものだろう? 本来あった天守閣を見てみたいですよね。